Title: 殉情詩集
Author: Haruo Sato
Release date: January 28, 2012 [eBook #38697]
Most recently updated: February 24, 2021
Language: Japanese
Credits: Produced by Sachiko Hill and Kaoru Tanaka
Title: 殉情詩集 (Junjo Shishu)
Author: 佐藤春夫 (Haruo Sato)
Language: Japanese
Character set encoding: UTF-8
Produced by Sachiko Hill and Kaoru Tanaka.
殉情詩集自序
われ幼少より詩歌を愛誦し、自ら始めてこれが作を試みしは十六歲の時なりしと覺ゆ。いま早くも十五年の昔とはなりぬ。爾來、公にするを得たるわが試作おほよそ百章はありぬべし。その一半は抒情詩にして、一半は當時のわが一面を表はして社會問題に對する傾向詩なりき。今ことごとく散佚す。自らの記憶にあるものすら數へて僅に十指に足らず。然も、些の憾なし。寧ろこれを喜ぶ。後、志を詩歌に斷てりとは非ざりしも、われは無才にして且つは精進の念にさへ乏しく、自ら省みて深くこれを愧づるのあまり遂には人に示さずなりぬ。但、殉情の人は歌ふことにこそ纔に慰めはあれ、譬へば、かの病劇しき者の呻くことによりて僅にその病苦を洩すが如し。されば哀傷の到るものある每にわれは恒に私に歌うて身をなぐさめぬ。又譬へば獵矢を負へる獸の森深く逃れ來りて、世を惡み人を厭ひて然も己が命を愛するの念はいや募り、己が口もて己が創痍を舐め癒さんと努むるが如し。
世には强記にして好事の士もあるものなり。面榮ゆくもわがかの詩作を今更に語り出でて、時にはこれを編みて册子とせよなど勸むる友さへあり。されど誰かは、未熟にして早く地に墜ちたる果實を拾ひて客の爲めに饗宴の卓上に盛らんや。乃ち篤くこれを謝するのみなりき。この機にのぞみてわれは改めてかかる人人に乞はん。わが舊き詩歌は悉くこれを忘れたまへ。少しく言葉を弄ばんか、今日のものとても同じく然したまへ。然らば今この集を敢て世に問ふの故は如何。曰く米鹽に代へんとす。曰く春服を求めんとす。否、われは口籠ることなくして言ふべし。聽き給へ、われ今日人生の途なかばにして愛戀の小暗き森かげに到り、わが思ひは轉た落莫たり。わが胸は輞の下に碎かれたる薔薇の如く呻く。心中の事、眼中の淚、意中の人。兒女の情われに極まりては偶成の詩歌乃ちまた多少あり。げに事に依りてわが身には切なくもあるかな、わがこの歌。然れども旣に世に問はん心なければ、わが息吹なるわが調べはいつしかに世の好尙と相去れるをいかにせん。われは古風なる笛をとり出でていま路のべに來り哀歌す。節古びて心をさなくただに笑止なるわが笛の音に慌しき行路の人いかで泣くべしやは。たとひわが目には水流るるとも、知らず、幾人かありて之に耳を假し、しばしそが步みを停むるやいかに。
嗟吁、わが嗚咽は洩れて人の爲めに聞かれぬ。われは情癡の徒と呼ばるるとも今はた是非なし。
大正十年四月十三日
佐藤春夫
不結同心人
空結同心草
薜濤
せつなき戀をするゆゑに
月かげさむく身にぞ沁む。
もののあはれを知るゆゑに
水のひかりぞなげかるる。
身をうたかたとおもふとも
うたかたならじわが思ひ。
げにいやしかるわれながら
うれひは淸し、君ゆゑに。
片こひの身にしあらねど
わが得しはただこころ妻
こころ妻こころにいだき
いねがてのわが冬の夜ぞ。
うつつよりはかなしうつつ
ゆめよりもおそろしき夢。
こころ妻ひとにだかせて
身も靈もをののきふるひ
冬の夜のわがひとり寢ぞ。
しんじつふかき戀あらば
わかれのこころな忘れそ、
おつるなみだはただ祕めよ、
ほのかなるこそ吐息なれ、
數ならぬ身といふなかれ、
ひるはひるゆゑわするとも
ねざめの夜半におもへかし。
こぼれ松葉をかきあつめ
をとめのごとき君なりき。
こぼれ松葉に火をはなち
わらべのごときわれなりき。
わらべとをとめよりそひぬ
ただたまゆらの火をかこみ、
うれしくふたり手をとりぬ
かひなきことをただ夢み、
入り日のなかに立つけぶり
ありやなしやとただほのか、
海べのこひのはかなさは
こぼれ松葉の火なりけむ。
さまよひくれば秋ぐさの
一つのこりて咲きにけり、
おもかげ見えてなつかしく
手折ればくるし、花ちりぬ。
吹く風に消息をだにつけばやと思
へどもよしなき野べに落ちもこそ
すれ 梁塵祕抄
かくまでふかき戀慕とは
わが身ながらに知らざりき、
日をふるままにいやまさる
みれんを何にかよはせむ。
空ふくかぜにつてばやと
ふみ書きみれどかひなしや、
むかしのうたをさながらに
よしなき野べにおつるとぞ。
つれなかりせばなか〳〵に
そらにわすれて過ぎなまし、
そもいくそたびしぼりけむ
たもとせつなしかのたもと。
せつなさわれにつもるとも
沾ぢてはかわくものなれば
昨日のたもとにこと問はむ
ぬるるやいかになほけふも。
よきひとよ、はかなからずや
うつくしきなれが乳ぶさも
いとあまきそのくちびるも
手をとりて泣けるちかひも
わがけふのかかるなげきも
うつり香の明日はきえつつ
めぐりあふ後さへ知らず
よきひとよ、地上のものは
切なくもはかなからずや。
こころを人にさらせども
げにもとなげく人ぞなき、
こころのいたで血を噴けど
あなやと叫ぶ人ぞなき。
すまじきものは戀にして
苦しきものぞこころなる、
こころはいとし、すべもなし、
手にはとられず目には見られず。
埋火もきゆや泪の烹る音 芭蕉
あるはのきばゆたつけぶり、
あるは樋をゆくたにのみづ、
あるはわが目にわくなみだ。
これをさだめとさとるゆゑ、
ぜひなきものと知るらめど、
とめてとまらぬものなれば、
せつなやあはれほそぼそと、
ひとすぢにこそながるらし。
摘めといふから
ばらをつんでわたしたら、
無心でそれをめちやめちやに
もぎくだいてゐる。
それで、おこつたら
おどろいた目を見ひらいて、
そのこなごなの花びらを
そつと私の手にのせた。
その目は淚ぐんで笑ひ
その口は笑つて頰は泣いてゐる。
表情の戶まよひした
このモナリザはまるで小娘だ。
あなたとわたしとは向ひあつて腰をかけ、
あなたはまぶしげに西の方の山をのぞみ、
わたしはうつとりと東の方の海をうかがひ、
然しふたりはにこにこして同じ思ひを樂しむ。
とありし日のとある家の明いバルコン。
何も知らない家の主人にはよき風景をほめ、
ふたりはちらちらとお互の目のなかを樂しむ。
戀人の目よそれはまあ何といふ美しい宇宙だらう。
全くあなたのその目ほどの眺めも花もどこにあらう……
おお、思ひ出すまい。ふたりは庭のコスモスより弱く、
幸福は卓上につと消えた鳥かげよりも淡く儚く、
歎きは永く心に建てられた。あの新築の山荘のやうに。
柔かきかかる日の光のなかに
いまひとたび、あはれ、いまひとたび
ほのかにも洩したまひね、
われを戀ふと。
北原白秋「斷章」二十五
舊作のうち記憶に殘れるもの三四。
別に「晝の月」及び讀み人知らぬ
古曲の一節を拾ひてここに採録す。
舊作は慨ね數年前わが二十二三歲
ごろの作なり。
一
紀の國の五月なかばは
椎の木のくらき下かげ
うす濁るながれのほとり
野うばらの花のひとむれ
人知れず白くさくなり、
佇みてものおもふ目に
小さなるなみだもろげの
素直なる花をし見れば
戀人のためいきを聞くここちするかな。
二
柳の芽はやはらかく吐息して
丈高くわかい梧桐はうれひたり
杉は暗くして消しがたき憂愁を祕め
椿の葉日の光にはげしくすすりなく……
三
ふといづこよりともなく君が聲す。
百合の花の匂ひのごとく君が聲す。
四
なげきつつ黄昏の山をのぼりき。
なげきつつ山に立ちにき。
なげきつつ山をくだりき。
五
蜜柑ばたけに來て見れば
か弱き枝の夏蜜柑
たのしげに
大なる實をささへたり。
われもささへん
たへがたき重き愁を
わが戀の實を。
六
ふるさとの柑子の山をあゆめども
癒えぬなげきは誰がたまひけむ。
七
遠く離れてまた得難き人を思ふ日にありて
われは心からなるまことの愛を學び得たり
そは求むるところなき愛なり
そは信ふかき少女の願ふことなき日も
聖母マリアの像の前に指を組む心なり。
八
死なんといふにあらねども
淚ながれてやみがたく
ひとり出て佇みぬ
海の明けがた海の暮れがた
――ただ靑くとほきあたりは
たとふればふるき思ひ出
波よする近きなぎさは
けふの日のわれのこころぞ。
1
野ゆき山ゆき海邊ゆき
眞ひるの丘べ花を藉き
つぶら瞳の君ゆゑに
うれひは靑し空よりも。
2
影おほき林をたどり
夢ふかきみ瞳を戀ひ
なやましき眞晝の丘べ
花を藉き、あはれ若き日。
3
君が瞳はつぶらにて
君が心は知りがたし。
君をはなれて唯ひとり
月夜の海に石を投ぐ。
4
君は夜な夜な毛糸編む
銀の編み棒に編む糸は
かぐろなる糸あかき糸
そのラムプ敷き誰がものぞ。
男のうたへる
ひとりものかや二十日月、海の夜あけにのこりたる。
女のうたへる
かがみくもらすわがといき、夕べは月の暈となる。
しんじつこひしきものならば、つまも子もある
ものか、ともおぼすらめども、おもへども、わ
りなさよえにしたたれず、切なしやゆるさせた
まへ、なわすれそ、互に、けふを。と、なけば
ぜひもなしや、しんじつこひしきものゆゑに血
をながしてもともおもへども、おもへども。あ
きらめてさても得わすれで、おもかげ。ゆめに
見てゆめさめて、あなわが身、わが世、憂き世。
野路の果、遠樹の上、
空澄みて晝の月かかる。
あざやかに且つは仄か
消ぬがに、しかも嚴か。
見かへればわが心の靑空、
おお、初戀の記憶かかる。
……………………
さるを今君ここにおはさず、
われは今空しくも
遠き君がこころに語を寄するのみ、
われにはや歌つくる力はあらず、
われわが爲めに口ずさめども
君の聞き給はぬ歌を如何でわれつくるを得んや!
……………………
ルネ・ヂオルジヤン「水邊悲歌」
堀口大學譯
その戀人の中にはこれを慰むるも
のひとりだに無くその朋はこれに
背きて仇となれり 耶利米亞哀歌
「主よ、わが心の爲めに
さまよへるシオンの娘を
遣しめよ。
「さまよへるシオンの娘よ、
わが心に來れ、
來りわが心の礎に坐して哭け。
「來り見よ、シオンの娘、
わが心は荒果てて
汝がふるさとの都のごとし。
「來り哭け、シオンの娘、
わが心の廢墟はいま
かがやけるみ空の月かげに濕ふ。」
かく歌へるわが歌により
シオンの娘ひとり來り
しばしわが心に坐して哭きぬ。
坐して哭けるシオンの娘は
されど、現世のものには非ず、
これはこれ影の影にして。
影は影なる聲によりて哭く、
わが心の廢墟より
いや深き寂寞を搖起して哭く。
われら土より出でたれば土にかへる
われら裸にて生れたれば裸にて生く。
げにもよ――
われらひとりにて產れたればひとりにて生く。
ひとりにて生きて、さてひとりにて死にゆく……
夜もすがら日もすがらわが長息け
どもそも誰がためと問ふ人もなし
わが靈は陰府にくだる細き徑にして
わが溜息は陰府より洩るる風なれば
とほくかすかに通ひ來りてわが唇の上に消ゆ。
われはわれひとりしてわが溜息をもらし
その一息ごとに陰府の近さを測り知る。
人あり、これを感じこれを聞くとも
わが溜息をおもひやらずわが爲めに泣かず
ただ身ぶるひしてひたすらにこれを惡み怖る。
げにそは屍のにほひを帶びて暗く冷く
光達しがたき底よりもるる風なれば。
海につづける城の櫓。
夜。
波の音きこゆ。
思ひ沈める騎士ひとり。
この時、メフィストフェレス登場。
「今晩は!
大そう陰氣なお顏をして
お淋しさうだ。
ちよつとお話相手をさせてください。
さて、一本氣な殿樣!
物語風の騎士!
君は近ごろ立派なお城を建てましたね、
噂を聞いて參上して見たが、
見事! 見事!
それに思ひ出といふ貴女の
靑ざめた亡靈によく奉仕して御座る。
感心! 感心!
ところで殿樣。
お城は飛んだところへ建てましたなあ。
足場は大丈夫ですかい。
一たい私はその道のくろうとだが――
ちよつと御覽。
さて智惠のない地盤さね、
まるでこれや女ごころの沙濱だ。
そうれ! 風が吹けば沙丘
波が荒れれば洲……」
メフィスト雙手をひろげて風と波との身ぶりよろしく闊步す。
「……どうです。
僕がかうちよつと步いただけでも、
何と! 少々は搖れませう。
これや一そう中空へ建てた方がましだつた。
なるほどお城は立派さね、
今さら立退くのは惜しいやうだ。
だが惡い事は言はない、
もういいかげんに立退いては!
それとも殿樣!
お城の崩れる日を待つて
幽靈と心中なさるお心掛けですかい。
それもよからう、御隨意だ。
私は他人の意志は尊重しますからね。
おや、おや!
これやお氣に觸つたかな。
それではせいぜいおひとりでお泣きなさい。
たまにはしんみりひとりを知るのも身の爲めです。
さやうなら。
陰氣なところに長居は無用だ。
どうれ、ちよつと寄り道をして
あのしやれた一組を見て來ようか、
奴等は全くしやれて居るよ――
泣きながら唇を吸ひ合つて靈とやらの傷を甜あつてゐるのだからな……」
突然、騎士は立上り、長劍を拔きてメフィストを刺さんとす。
この時櫓はおもむろに少しづつ傾く事。
騎士は聲を上げて呻く。
見えざるところよりメフィストの哄笑聞ゆ。
騎士はよろめき倒れんとして僅に劍によりて身を支ふ。
燈暗無人說斷腸 陸放翁
……わが歎きは終にわがものなれば
人、これをかへり見ず。
又かへり見ることを我は許さず、
ヨブの友よ來りてヨブを慰めざれ。
わが歎きよ、おおわがものよ、
われは限りなくなんぢを愛す、
彼等が妻になすがごとく
また彼の女らが幼子になすがごとく。
わが歎きよ、ただ一つなるわがものよ、
われは、妻なく幼子なきわれは
夜もすがら强くなんぢをかき抱きて
なんぢがうへにわが淚を盡す。
おおわが歎きよ、わがひとり子よ
なんぢが母はわが戀にして
なんぢが母はなんぢが遺して早く去りぬ。
なんぢよ、なんぢは面かげ母に似てかなし、
わが歎きよ。なんぢ生ひ育て。
永く生きよ。息絕ゆること勿れ。
われをして永く具になんぢを愛し
なんぢに依りてなんぢの母が面かげを忍ばしめよ。
われは今、母なきなんぢをかく强く抱く。
夜ふかし、見ずやわが子、
なんぢが母の亡靈は今宵もまた來りて
われとなんぢとの傍にやさしくも添寢したり……
聖地パレスチナは何時までも聖地なり。
たとひ異端の寺立ち並び、異端の都となり
異端の弓櫓の上に異端の星集ひ輝き
パレスチナの水は異端の噴井よりふき溢れ
異端の徒は異端の怪しき花を蒔き
パレスチナの土は異端の種を培ひて
荊ある異端の花を花ざかりにするとも、
歎く勿れ、そのかみの聖地、今日の聖地、後の日の聖地、
一たびまことの聖地なりしパレスチナ
吾がパレスチナぞ何時までも吾が聖地なる。
殉情詩集 畢
本テキストは昭和五十四年筑摩書房刊「近代日本文学26 佐藤春夫集」を底本にした。